困難にめげず明るく前向きに生きる力、思いやりの心、豊かな情操を育む大阪女学院のキリスト教教育 をご紹介します。

大阪女学院のキリスト教教育が目指すものは、創造主としての神の存在を知り、ひとり一人が神に創られたかけがえのない存在として愛されていると気づくことによって、たとえどのような困難に出会っても明るく前向きに生きていく力を得ることです。本校の1日は礼拝で始まり、授業前のひとときを心静かに神と向かい合います。また中学から高校までの6年間「聖書」を学び、修養会、伝道週間、クリスマスなどの宗教行事に参加します。日常的に神の存在や人としての生き方を考える機会を持つことによって、思いやりの心や豊かな情操を育んでいきます。

礼拝の言葉から

ウヰルミナ女学校創立者 A.D.ヘール宣教師

【略歴】
1884年ウヰルミナ女学校(現大阪女学院)の創設責任者として学院の基礎を作り、1923(大正12)年に永眠するまで終生学院を見守り続けた。

ウヰルミナ女学校創立者 A.D.ヘール宣教師

道徳上の標準

夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。 ところで、祭りの度ごとに、ピラトは人々が願い出る囚人を一人釈放していた。さて、暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた。群衆が押しかけて来て、いつものようにしてほしいと要求し始めた。そこで、ピラトは、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいのか」と言った。祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていたからである。祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。ピラトは群衆を満足させようと思って、バラバを釈放した。そして、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。

(マルコによる福音書第15章1~15節)


標準と申しますものは、何につけても必要であります。例えば商人達が商売をする時に枡や物差しのようなものを持たなかったら、反物や穀物を売買することは出来ない。また時を知るために、確かな時計が必要である。航海者が航海する時に羅針盤がなければ到底航海をすることが出来ない。このように、すべて物事に標準はなくてはならぬものである。道徳上のこともその通り標準がなければならない。それでは道徳上の標準というのは何であるか、私は順次にこれを話すつもりである。

  1. 与論は完全無欠な道徳上の標準でありましょうか。日本の古くからの諺に、「郷に入って郷に従え」ということがある。この諺の意味はすでにご承知の通り、自分の住んでいる国の与論に従えということである。言いかえれば、その土地それぞれの風俗に従えということである。これは所々の交際の仕方や、日常の習慣について別に不都合もありますまいが、国の道徳が紊乱している時に、やはりそれに従えということになると大変である。何故かというに、与論は標準として依るにたらないものであるからだ。その理由は与論というものは時々変わるもので、定まった標準というものがないからです。即ち時と所によって種々と変化してゆくものであり、決まった捉えどころがないからである。これを交際上の習慣でいうと、ある東の国では来客をもてなすに茶や菓子のようなものばかりではその客を篤くもてなすことにならない。自分の妻をその客人に与えることを最もすぐれたことと思っている。しかし日本及びその他の文明国ではかようなことは最も不道徳極まることとなっている。またごく開けた文明国では、一人の男子に一人の妻ということは当然である。しかし、アラビヤの如き国では、一人の男に幾人も妻を持っているのを名誉と考えている。日本の諺に「地獄の沙汰も金次第」ということがあるが、アラビヤでは地獄の沙汰も妻次第でたくさんの妻を持っている者は、未来で最も幸福なところに住めると考えているのである。またアラスカという国では一人の女子が、五、六人の男子を有していることになっている。このように種々な無理を風俗や習慣に従わねばならぬというのは道理にかなわない。
  2. 与論のために時々、その時代の義しい人を害することがある。ここに引照してある聖書のところは、ピラトが愚かな与論と知りながら、それに従ったため義しい人、神の子イエスをバラバの如き囚人にかえて、死刑に処するような実に恐ろしい、悲しむべきことをしてしまった。ピラトには、悪い与論に逆らってこれに抵抗しようというような、深く高い義しい心がなかった。
  3. 常に与論にのみ任している人は神の与え給う進歩を阻害する者である。与論はいつも義しい声のみでない。与論に義しいこともあるが、悪く、不義な事も多い。もしその善悪を識別する事が出来ないならば、もしこれを弁別出来ても善い方に従う道徳上の勇気がなかったなら、その人は神様の与えなさる社会の進歩というものを阻止する罪人である。
  4. 与論は人を二心の者とする総督のピラトがイエスに何の罪もないと断言していながら、ついにその心を動かして、人々にイエスを渡してしまった。ピラトを動かした者は与論である。与論がなければ、ピラトは動かされずにすんだ。悪い与論は人を害する。世の与論をすべて信じないで自分の良心に照らして事を判断すべきであると教えられる。
  5. 各個人の信じる考えは道徳上の欠点がない標準となり得るか。もし与論が道徳上の標準として依り頼む価値のないものとすれば、各個人の考えは道徳上の標準とすることが出来るだろうか。一個人の考えを道徳上の標準とするのは与論よりも一層不健全なものである。「膝とも談合」「三人よれば文殊の智恵」などという諺がある通り、唯独りで決めてしまうことは、なかなかに危険なことである。膝とだけでも談じて見よ、何かの智恵を与えられる。思案に余ることは、独りで決めてしまわずに、おもむろに考え、人の智恵も借りるのが本当である。これを人間より以上の智と愛とを持ち給う方に相談してみるとその結果はいうまでもなかろう。
  6. 以上説き来たりました如く、与論もまた個人の考えも共に道徳上の完全無欠な標準として頼むに足りないとすれば、真正の標準は何でありましょうか。道徳上の真正で完全無欠の標準は幾千年経っても変わらぬ、何処に行っても違わぬもの、即ち神の意志である。この意志、神の言葉は聖書の何処にも示されているがマルコによる福音書12章28節~34節によく言い尽くされている。しかし聖書の中に現れているよりも、一層完全にその意思を表されてある。それは、イエス・キリストを受け入れることが道徳上のために最も必要である。何故かというに、それによって道徳上の完全な標準を得まして、心の迷い・疑いなどの思いがなくなり、直ちに善い方向に就くことが出来るだけでなく、道徳を行い得る勇気、精力を分け与えられる。ピラトは与論の識別を誤ったばかりでなく、第一に良いことを行う力が欠けていた。これをどうして得るかが我々の学ぶべきことである。

1909(明治42)年3月28日発行 大阪東教会月報より


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A.E モルガン校長

【略歴】
1893(明治26)年~1897年 ウヰルミナ女学校4代目校長
1899(明治32)年~1904年 ウヰルミナ女学校6代目校長
1904(明治37)年~1914年 浪華女学校と合併後の初代校長
建学の精神の具現化につとめる。

A.Eモルガン校長

学校の目標

女子のミッション・スクールが目指す成果を定義してみましょう。それはこの国の全ての婦人のあり方を、徐々に変えていくような、クリスチャン婦人の品性というパン種を準備することではないでしょうか。これらの学校は、多くの少女を集め、しとやかさ、信仰、そして、理解力を持つように教育しようとしています。即ち、キリスト教信仰に、しっかり根をおろさせ、成長を促すもので彼女たちを包み、そして美しい人生の形成のために、彼女たちの力を発揮させるのに必要な訓練を与えることを目的としています。学校から、若い女性は出て行き、キリストの感化を、あちこちに運びます。ある者は教えるという仕事をし、ある者は、他の職場で、キリスト教の祝福を、説いたり、証ししたりします。しかし殆んどの者は、遅かれ早かれ、力強い、良い感化を発揮する、クリスチャン・ホームを築くようになるでしょう。 ミッション・スクールの目的は、教育だけでなく、キリスト教教育です。これらの二つの言葉が結ばれて、一つの理念になったものです。このような成果は、官立の学校では、得られません。そこでは、教師がクリスチャンでなく、家庭の影響が、キリスト教的成長を助けるものではないからです。教育は、私たちの、理念と目的の一部分ですから、私たちの学校には、役に立つ訓練を、キリスト教の雰囲気と環境の中で与えることのできる教師がいます。 すべてに於て、私たちが、目指すことは、何らかの方法で働く義務を悟り、正直に仕事をすることを誇りとし、日常生活の雑事を越えて、物事を見抜く力のある人間を形成することです。これが学校の目標です。

1895(明治28)年に語られた言葉より


森田 金之助

【略歴】
1925(大正14)年、日本人最初の校長に就任。
1948(昭和23)年、学制改革により、中学校・高等学校発足、中学高校の院長に就任。
1960年永眠まで35年間の長きにわたり大阪女学院教育の責任者として大きな足跡を残す。

森田 金之助

主よ、我なるか

人が、それに対して絶対に服従し仕えねばならぬ権威を持たない事は、その人に対しての破滅である。 主が、此の世を去り給ふ前の晩、十二人のお弟子を集め一つテーブルを囲んで最後の過越の祭を守られた時、その祝いの終りに突然穏やかな顔で「汝らの中のー人われを売らん」と仰言いました。 弟子達は、この水入らずの、主のために全てを棄てて従って来た第子だけの席に敵が居るとの主の言葉に非常に驚いて、想像も及ばないと言った顔でお互いを見廻わしながら「主よ、我れなるか」と、代わるがわる尋ねるのであった。イエスは、われと共に手を皿につくるものそれなりと、はっきり誰だとは仰言らなかった、実にユダの最後の悔い改めを待ち給うたのである、しかし、彼ユダは「主よ、我れなるか」と白々しくも問うたのである。 「主よ、我なるか」ユダのこの言葉は他の弟子達のそれとは大変な相違である。 何故同じ弟子の中にユダのみが、かくも異なり、主を裏切るに至ったか。ユダは決して信仰のない、また他の弟子たちと比べて劣れるものではなかった。寧ろ彼等の中にありて、会計係という重要な地位にあったのである。しかもかかる叛逆を企つるに至ったのは何故だろうか。私は思う。彼ユダにはどうしても服従せねばならぬオーソリティがなかったのである。ペテロも主が曳かれ給うた時、大祭司の中座にて「我れ彼れを知らず」と三度まで主を否んだのであった。しかし彼は、主がちょっと振り返り給うた時、直ちに泣き悔いたのである。ユダと同じく主を拒んだけれど、ペテロには主のただ一瞥に堪えられないもの、力、権威を受けるのである。ユダはイエスの弟子になったが自分と合わない時は、イエスにても神にても刃向う事の出来る人である。その自分と神とを同列に置かんとしたユダの不遜はとうとう彼を縊(くび)ったのである。 世の人の生き方に二様ある。簡単に言えば、自分と同列ならざれば神様でも承知しないと言う人と、ある大きなものがある。その大きなものに従って、仕えて行く人とである。この世の中には自分の勝手をやることが自由だと考えている人がある。私どもは神の方則に従わねばならぬように出来ているのである、我々は神の方則に従っていくらでも自由に生きて行けるのである。 基督教の真の自由は、実に絶対に神に従う所にあるのである。オーガスチンの言葉に「神が人に自由意志を与え給うた時、一本の紐をつけた。人間はその紐を切らねばどこまで彷徨っても帰ることが出来る」と。その紐を持てるものがわれわれ信者である」 自己中心でなく神中心である。「神与え神取り給う。神の名はほむべきかな」と言ったヨブの信仰が我々の信仰である。 我々はユダの持てる如き不信仰を持たず神様を逃さずに常に神を抱き神に従って光あり栄ある生涯に入るべきである。

1927(昭和2)年3月17日 ウヰルミナ教会における説教
1927年ウヰルミナ女学校校友会誌より


西村 次郎

【略歴】
1948(昭和23)年中学校高等学校の副院長に就任。
1960(昭和35)年院長に就任、1965年の停年まで院長職に就く。
森田院長と共に、敗戦後の学院復興に多大の功績を残す。

西村 次郎

「キリストに賭ける人生」

英国のある心理学者は、「信仰者の生きがいは神に賭ける冒険である」といっている。神に賭ける冒険は、結果がわからない。知らされていない。我に来よとおっしゃるお声に生涯を託す。これがキリスト者の冒険だと思います。植村直己という人が北極圏を窮めたが、彼が北極圏を窮めた時、その冒険は終りです。しかし我々が神に賭ける冒険には終りがありません。神様を信じてどうなるのやらわからんが、一切を御手に賭ける。こういう賭け方を、我々の生活の中に現わしていかねばならんと思うのです。今日、教会が伸びないとかなんとかいっているのは、信徒が本気で信じていない。御言を割引いて額面通り受け取っていない。「あすの事を思い煩うな」とあるなら、本当にあすの事を思い煩うな。信徒はその生き方をしなければならんと思うのです。 今日八十の年で、過疎でむつかしい問題と取組ませていただいて、本当に緊張した生活をしています。いっさい神様にお任せですから、「これから先はあなたの責任」という次第です。 私は献体書というのを持っているんですが、死んだら死骸を24時間以内に、私の場合浜松医大から引取りに来ます。24時間以内でしたら目も腎臓ももう一度使えるそうですし、死んだ後学術研究に使ってもらおうと思っています。私の村人達にできる最後の最大の証しは、私の死に様であると思います。これは大事なことです。人間は必ず死にますが、いつ死ぬかわからん。いつ死ぬかわからんのをいいのがれに、一番大切な死ぬことをいいかげんにしてしまいます。近頃、死に対する覚悟を説く者が多くなりましたが、我々キリスト者が持つ永遠の命への確信とは違います。私は八十になって、そのことが切実に分るようになりました。 私の葬式はしません。我々には永生の大きな喜びと望みがあるのでしょ。悲しむ必要なんかない。死んだら物質に過ぎない。その前で、告別の言葉を述べたり、献花したり。私は葬式でなく壮行会、“行って来ます”“行ってらっしゃい。いずれまた”。先へ行く喜び、後から行く楽しみ。キリスト者の送る、送られる、この姿勢でなくてはならんと思うのです。 神戸の山の上に、私の大阪高商同期生の一人が住んでいます。この人はある貿易会社の社長、会長をし、今はやめて隠居しているが、その彼が何とも哀れな話をしていました。会長までしたので金持ちですが、「晩メシを喰ったら毎晩神戸に降りてキャバレーでもう一度飲み直し、ホステスの身の上話を聞いてやり、帰りにチップ一万円をやる。毎晩それをやらんと眠られん」というのです。彼は、自分の出世の過程で、どれだけ同輩を踏みつけ商売敵を打ち沈めたか、あいつの家族はどうしているだろうかと、いろいろ思い出されて眠られんというのです。私が、彼に罪滅ぼしやってんのと違うかというと、そうだといい、ではその罪を許すという声を聞いたかと聞くと、彼は深い吐息をついていました。人が過去に犯した罪を許すという声は神以外からは聞けません。彼はその後教会に行き、ついに受洗しました。 定年退職が持つ哀れな響きというのは、定年退職をしてからの生き様にあるのです。我々教会に身を置いている者には、定年退職はありません。我々は最後の最後まで神様の期待と、神の命を生きるという召命と恩寵をいただいておるのです。

1979(昭和54)年10月に行われた講演より