今に受け継ぐミッションスクールの誇り

大阪女学院は、ミッションスクール(Mission School)として創立されました。ミッションとは「欧米のキリスト教の教会が主に外国に伝道するために作った団体」のことで、教会を設立するだけでなく、キリスト教の精神に基づいて学校、医療、施設、社会福祉施設などを設立・運営しました。
現在ミッションスクールは、それぞれミッションより独立し、学校法人として維持運営され、キリスト教学校、キリスト教主義学校等と呼ばれています。しかし、教育方針は創立以来変わることなく受け継がれているので、ミッションスクールという言葉が今でも用いられています。
大阪女学院は、創立以来、キリスト教に基づく教育を目指し、神を畏れ、真理を追究し、愛と奉仕の精神で社会に貢献する女性を育成することを教育方針としています。

伝統の輝き
~130年の時が築き守り続けてきた創立の精神~

明治17年(1884年)1月7日、A.D.ヘール宣教師が『ウヰルミナ女学校=維耳美那女学校=Wilmina Girl's School』を、米国カンバーランド長老教会のミッションスクールとして、西区川口町外国人居留地22番地に創設、開校しました。
当時、日本政府は教育事業に熱心に取り組み、公立の学校がいたるところに建てられていました。公立の学校の教育方針は和魂洋才で、欧米の科学技術(洋才)を教えましたが、「人間は平等である」「生命の畏敬」「平和な社会建設」などのキリスト教の教えは、日本の思想(和魂)に反する考えであると、学校で教えることを禁止していました。
ヘール宣教師兄弟は、学校では一般教育とともに、キリスト教教育を行い、創造主である神を知り、自分も他の人の命も大切にし、いつも前向きに明るく生きる人間を育成したいと思いました。
それがウヰルミナ女学校、現在の大阪女学院創立の精神です。創立から130年を経た今もその精神はかたく守り続けられています。

沿革

1878年(明治11年)10月
A.D.ヘール先生(Rev.Alexander Durhum Hail)が、米国カンバーランド長老教会の宣教師として来阪、一年前来阪の弟J.B.ヘール先生と協力してキリスト教伝道を開始しました。
1884(明治17年)1月7日
ウヰルミナ女学校(Wilmina Girls' School、維耳美那女学校)がカンバーランド長老教会のミッションスクールとして開校しました。生徒数は3名。場所は大阪府西区川口町外国人居留地(市制は1887年から実施されました。現在の大阪市西区川口町ですが、創立当初は大阪府西区が正しい地名。)、校長はA.M.ドレナン先生(Mrs.America M.Drennan)で、女学校設立のために前年4月にアメリカから来阪した教育宣教師です
1886年(明治19年)9月
大阪一致女学校が、米国北長老教会のミッションスクールとして開校しました。生徒数は14名。場所はウヰルミナ女学校の道路を挟んだ真向かえにありました。校長はA.E.ガーヴィン先生で、4年前から女学校創立の準備をしていました。
1888年(明治21年)6月
大阪一致女学校は大阪府西成郡清堀村に土地を購入し、校舎を新築、移転しました。この場所が現在の大阪女学院の所在地で、その後、町名は大阪市東区仁右衛門町と改名され、さらに1979年2月より東区(現在は中央区)玉造2丁目26番地54号と表示変更されました。
1892年(明治25年)4月
大阪一致女学校は浪華(なにわ)女学校と改称しました。
1904年(明治37年)4月
ウヰルミナ女学校と浪華女学校が合併し、校地・校舎は浪華女学校のものを用い、校名はウヰルミナ女学校を継承しました。合併後の校長にはウヰルミナ女学校の校長A・E・モルガン先生(Miss Agnes E・Morgan)が就任しました。生徒数は150余名。
1940年(昭和15年)10月22日
政府より、全国にある外来語に由来する校名を持つ学校に対して、校名変更の指示が出て、ウヰルミナ女学校を、「大阪女学院」と改称しました。(詳細は「校名の由来」を参照して下さい。
1945年(昭和20年)6月1日
戦災で全校舎焼失。敗戦後、バラックの校舎を建てて授業を再開、数年後アメリカ長老教会の援助や多くの人々の努力によって校地を拡張、チャペル、校舎再建を進めました。
1947年(昭和22年)4月
新学制の大阪女学院中学校が発足。
1948年(昭和23年)4月
新学制の大阪女学院高等学校が発足。
1968年(昭和43年)4月
大阪女学院短期大学が開学。
2003年(平成15年)4月
高等学校・英語科が文部科学省より、「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」の指定を受けました。
2004年(平成16年)4月
大阪女学院大学が開学。
2009年(平成21年)4月
大阪女学院大学院が開学。
2009年(平成21年)10月
大阪女学院創立125周年記念式典を挙行。

校名の由来

「ウヰルミナ女学校」〈1884(明治17)年開校〉

米国カンバーランド長老教会によって創設された学校で、「ウヰルミナ」という校名は、日本での学校設立のために多額の献金を捧げたキリスト教信徒にちなんだものです。テキサス州オースチンの農夫であったWilliam Saunders氏は、亡き妻Erminaさんの記念に、1,000ドルの献金を寄せてくださいました(川口居留地の校地約370坪の購入価格が2,200ドルの時代)。この最初の寄付者である夫妻の名をとり、WilliamのWilと Erminaのminaを組合わせてWilmina(ウヰルミナ)女学校と名付けられました。漢字では「維耳美那」と表記されていました。

1904(明治37)年、米国北長老教会の浪華女学校(旧大阪一致女学校)と合併した際、校名はウヰルミナ女学校が継承されました。米国北長老教会の学校は全国に数校ありましたが、カンバーランド長老教会の学校はウヰルミナだけであったことと、「ウヰルミナ」の命名の由来が尊重されたことなどによると考えられます。

「大阪一致女学校」〈1886(明治19)年開校〉

この学校を創設した米国北長老教会のミッション(宣教局)は、日本基督一致教会と称する教派を組織し、大阪に創設した各教会も一致教会と称していました。女学校の名もこれに合わせたもので、女学校設立を望んでいた信徒たちの意見を取り入れて命名されました。

「浪華(なにわ)女学校」〈1892(明治25)年 大阪一致女学校から改名〉

1890(明治23)年に、日本基督一致教会が日本にあった長老派系の4教会と合同して「日本基督教会」となりました。大阪の各教会がその浪花中会に属していたことにより、「浪華女学校」としたものと思われます。

「文部省指定ウヰルミナ女学校」〈1912(明治45)年〉

「文部省指定ウヰルミナ女学校高等女学部」〈1927(昭和2)年 〉「文部省指定」や「高等女学部」という呼称の背景には、国の宗教教育統制と、その試練の中で教育理念を守ろうとした学校の歩みがあります。
〈1937(昭和12)年頃から「ウヰルミナ」ではなく「ウイルミナ」の表記が使われるようになりました〉

「大阪女学院」〈1940(昭和15)年〉

世は太平洋戦争前夜で、反外国、反キリスト教の嵐が吹き荒れた社会情勢下にありました。英語や外来語は「敵性語」として排斥される状況の中、校名に英語が使われている全国のキリスト教学校は、次々に校名を変更していかざるを得ませんでした。

当時の森田金之助校長は、当局から変更を強制されたわけではありませんでしたが、時局を考えた上で理事会に諮り、職員の意見をふまえて、主体的に校名を「大阪女学院」と改めることを決めました。ウイルミナ女学校高等女学部は大阪女学院高等女学部となりました。当時の生徒たちは、「大阪にキリストの光を輝かす中心となる女性を送り出す学校」という使命感からの決定である、と教えられました。校名変更の記念式典が盛大に執り行われ、記念の「新校名発表の歌」が発表されました。「うち集ふ 愛の友垣」という歌詞に始まり、神の豊かな光を常に仰ぎ見て祈りのある心が満ちあふれ、学ぶ者の個性が豊かに咲き競う学校「大阪女学院」という新しい校名を高らかに掲げて誇りを持って進んでいこう、とうたわれています。時代の困難を乗り越えて、神を信じ、学院の伝統を高く掲げて進もうとする意気込みが溢れています。その精神は、後の時代にもしっかりと受け継がれています。